LOGIN見下ろされた彼の白銀の瞳は、甘ったるい熱を含んでいた。
「ん。可愛い声……ねぇローレライは抱いたらどんな声で歌ってくれるのかなぁ」 外耳を舐めるような甘い声。彼はイルゼの耳たぶに口付けを落とすと、突如布団を蹴り上げ、イルゼのナイトドレスを乱暴に脱がせ始めた。「あっ、ま、待って……! みひゃえるさま、だめ! 私好きとか分からない……」 与えられる快楽に舌っ足らずになりつつもイルゼは慌てて訴える。だが、それ以上は言わせまいと唇を噛みつくように塞がれてしまった。 唇と唇が触れ合っている……。キスされたのだ。 額や頬に触れられるだけのキスはこれまで何度か挨拶でされたが、唇に与えられるなど初めてで……。 唇と唇を重ねることは特別なこと。恋人同士、或いは夫婦にしか許されない。 恋人でも夫婦でもないのに、なぜにこんなことをするのか……。 イルゼは、目を大きく六月中旬。夏至を越え、夏が深まりつつあった。 今年は猛暑なのだろう。まだ午前中、室内にいるにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。 イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。 別に精神異常はないが、療養の名目上とのことでミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。 しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。 初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。 額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振る。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。 だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。 「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」 なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。 イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みをこぼして白く濁った瞳を向けた。 「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをするほどに、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」 さすが精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。 「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先のことはもうお決めになったのですか?」 こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。 「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。義兄さんに会えなくなることはとても寂しく思いますが、一度しかない自分の人生をしっかりと歩みたいと思い
※※※ 「ルイのばか……」 消え入りそうな声が、霞がかった耳に届いた。 ミヒャエルは薄く目を開ける。 ──ルイ。今、彼女は自分をそう呼んだだろうか。 馬鹿というのは聞き捨てならないが……。 パチリと目を開き、腕の中を見ると、スゥスゥと規則正しい寝息を立てて眠るイルゼの顔が映った。 穏やかで、愛らしい寝顔。長い睫が頬に影を落とし、唇が僅かに開いて、どこかまだ幼い少女の面影を残している。 昨晩、魘されていた彼女を心配して部屋に行ったときに寝顔を見たが、寝ていても彼女は本当に天使のよう。愛らしいと思ってしまった。 まして表情が豊かになったことから尚更にそう感じるのかもしれないが。 ほんのり微笑まれると、鼓動が高鳴り幸せに包まれる。 しかし、ルイと……。 呼ばれた名を心の中で呟いた途端、背中に鋭い疼きが走った。 視界が歪み、やがて暗転する。 ──こことは別の、見張り塔。北側の、冷たい石の部屋。 父から受けた拷問に等しい虐待が、ふと脳裏に浮かぶ。 鞭の音が耳に残り、皮膚が裂ける感触が蘇る。鼻腔に立ち込める血の匂い。真っ赤に焼けた鉄と滴る汗。自分の皮膚が焦げる異臭……。 喘ぐような息をして、悲鳴をあげて、大粒の涙をこぼして耐えるしかできなかった惨めな子どもだった自分の姿が浮かび上がる。 ──父は一度も、本当の名を呼んだことがない。否、この城では誰も呼んでくれなかった。 忌々しい。汚らわしい。なぜ本妻の息子、ミヒャエルが死ぬのだ。死ぬのはお前が良かった。穢らわしいシュロイエの残党が。本当に厄災の瞳だと。 虐待と一緒に日々投げつけられる言葉は、毒のように心を蝕んだ。 だったら、愛人など作らなければ良かった。自分を作らなければ良かった。 どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない。 そうは思ったけれど
「当たり前です……。貴方は娼婦を束にして買うだとか爛れた噂がありますけど、私はそんな経験ないですもん」 羞恥と同時にほんの少しの腹立たしさがあった。 おずおずとイルゼはあの噂を口にした。 対して彼は「あー」と、間延びした返事をしながらため息をこぼす。 「実際、十人くらいは束で何度か買ったよ。でも全部仕事絡み。酒場や娼館って、金持ちの悪い噂がゴロゴロしてるからねぇ。それでも一度、『仕事しないと帰れない』って言われて……経験がないってのは嘘になるけど、さっきも言った通り、俺、そういう時はマジで勃たねぇんだわ」 ──途中で俺が萎えちゃって中断。なんて彼は、苦笑いで付け添えた。 なるほど。事実らしいが、そういう目的ではないことが意外だった。 もしかして、領民は噂ばかりで彼のことを誤解しているのではないのか? と、思えてしまう。 しかし、なぜだか彼の口から異性経験があるとはっきり言われると、心の奥にチクチクとした痛みを感じた。たとえ「中断」と言われても……。 淫蕩に耽る奇人・変人の猟奇領主だの言われているにしても。彼があの晩出会った傷だらけの少年──「ルイ」だと気づいてしまったからだろうか。 どうしてだか、胸の奥がモヤモヤして仕方ない。 けれどその感情の名を、自覚したくない。 少しばかり間を置いて、イルゼは僅かに彼を見上げてみる。こんなことを語らせて、少し機嫌でも悪そうな顔でもしているか。と思ったが、存外そうでもなかった。 「嫉妬でもした?」 しれっとした口調で言われて驚いてしまった。 「なんで、そうなるんです……」 目を細めて言えば、彼に後ろ髪を撫でられた。 短くなってしまったせいで、うなじに触れられると擽ったくて堪らない。 しかし微睡んだ彼は、ただ優しく笑むだけだ。 やはり、こういう顔は卑怯だと思う。 とても直視できなくなり、イルゼが視線を落とすと、彼は眠気で更
ミヒャエルはジレの内胸元から鍵を取り出して見張り塔の施錠を外す。 扉を開くと、そこにはこぢんまりとした小さな部屋になっていた。 ベッドにソファ。書き物机に、本棚も。床にはカーペットが敷かれており、もはやここで生活できそうなほどにしっかりとした作りだった。 イルゼは呆気に取られて空間を眺望する。 しかし、やはり窓がないので薄暗い。随分上の方に二つ窓があるが、そこから差し込む光はあまりに頼りない。 「まぁー見張り塔だし、暗いんだけどねぇ。ほら、ベッド使って。ちゃんとシーツも清潔だから安心してねぇ」 煤けた燭台を持つ彼は顎でベッドを示し、イルゼに使うように促した。 とりあえず腰掛けると、確かにふかふかで心地良い。 そして、彼はマッチを擦ると燭台に火を入れて、重々しい扉を閉める。 扉が閉まったと同時、空間は擬似的な夜に変わった。 暖かな橙の光がほんのりと辺りを照らす様はどこか心が和む。それに眠気が拍車をかけるように迫ってくるが……、ギシとベッドのスプリングが跳ねてイルゼは重たい瞼を限界まで持ち上げた。 「ほれ。寝るぞー。俺、滅茶苦茶眠り浅いから夕方には起こすから安心して昼寝して」 早速彼は、ベッドに横になり──「ここで寝ろ」と言わんばかりに、隣を叩き、イルゼの袖を引く。 「……え」 驚きのあまり、イルゼが目をしばたたけば、ミヒャエルは訝しげに眉を寄せた。 「眠いんだろ?」 「そ、そうですけど……私はソファ使います」 身分云々の前に婚前の男女だ。一緒のベッドで眠るなんて、イルゼの持つ常識的にはありえない。けれど、娼婦を束にするように買う彼からしたら、そんな貞操概念なんて皆無に等しいのだろうか。 「馬鹿いえ。女にそんな場所で寝させらんねぇーけど。ほら、おいで」 ──別に取って食
「だけど、俺も花は嫌いじゃないよ。植物とはいえ命があるからねぇ。枯らすのは惨い。だから、庭師を雇って管理をさせて存続させてる。どーせなら、いつか一般開放して領地の奴らに見て貰いてーとは思うけどなぁ」 ……庭を一般開放。 「変人」と呼ばれた彼の口から出るような言葉でないと思えてしまった。 存外、彼は領地の人のことを考えているのだろう。イルゼは呆気に取られてしまう。 「なんだよ、その〝意外〟みてーな顔。俺、後ろに目が付いてるから分かるんだよ?」 どこか意地そうに彼は笑うが、何だかこうも彼の表情が明るいとイルゼも嬉しい気持ちになって思わず微笑んでしまった。すると彼も微笑み返してくれる。 あの医者は言っていた。笑顔は連鎖すると。それは本当らしい。 「確かに一般開放されてこの庭園を見たら喜ぶ方がきっとたくさんいそうですね」 「だよな? じゃあそれは将来的に視野に入れておこーっと」 彼がそう言って間もなく、蔓薔薇に囲われた東屋に突き当たった。 真っ白な砂岩でできており、漆喰装飾を施して妖精のレリーフが至る場所に掘られているなど、こちらも立派な佇まいだった。それでもかなり年季が入っているのだろう。彫刻の溝に苔が蒸しているので、相当古いものと窺える。 「少しここで待ってよう。昼食、運んでくれるって言ってたし。多分そのうち来るんじゃねーの?」 この場所に来るまで城から距離もなかなかある。ここまで運ぶのか……。 「さすがに、それ……使用人の方たちに」 ……悪いのではないか。と、言わんとする前に、彼は首を横に振る。 「いや。考えてみな。ここ、緩い傾斜だけ。あの欠陥建築の階段に比べりゃね」 確かに言われてみればそうだ。イルゼは納得して間もなく──アーチの向こうから人の足音が二つ聞こえてきた。 食事を運んできたのは、ヘルゲとザシャの二人だった。彼らはテキパキと給仕しつつもミヒャ
「やっぱ花は興味ない?」「そうじゃなくて……凄いなって思って。こんなに素敵なお庭初めてで、驚いて上手く言葉にできません!」 やや興奮気味だった。イルゼは目を爛々と輝かせて思ったままを言えば、彼はやんわりと微笑む。 「一ヶ月でこうも感情が豊かになったイルゼの方に俺はもっと驚いたよ」 戯けた調子で言われて、イルゼは真っ赤になってしまう。 確かに自分らしくないと言えばそうかもしれない。けれど、こうも心が勝手に動くのだ。 「……だって」 ふて腐れるように言うと、彼は優しく笑みを向けたまま、イルゼの肩を摩る。 「俺くらいになれとは言わねーけど、イルゼは思ったことをもっと言えばいいと思うよぉ?」 ──嬉しそうなイルゼ見るの、俺は嬉しいよ。と、続けて言われてしまい返す言葉も見当たらない。 けれど、その言葉が胸の奥をほのかに熱くさせる。 それがこそばゆくなりはじめて、真っ赤になったイルゼは俯いてしまった。 これでは本当に彼を好きになってしまっているのではないだろうか。 こうも自分を肯定し、ありのままを受け入れてくれるなど普通だったらありえない。否、彼は変人なので、自分の暗い性質など微塵も気にしていないのかもしれないが……。 彼が部屋に迎えに来た時から、意識しないようにしていたが、やはり昨晩の夢が頭から離れないのだ。 「本読んだ?」と、気さくな調子で訊かれて一応頷いたが、上手い返事や感想なんて返せなかった。 だが、それ以上は何も訊かれなかったことが幸いだっただろう。 さて、いい加減に平常心を取り戻そう……。 そう思った矢先に、ミヒャエルは不思議そうに首を傾げてイルゼの顔を覗き込む。 「ひゃ……」 あまりに至近距離だったの